5月第2日曜日は母の日。「とりあえずカーネーションかな」と思っているあなた、ちょっと待って。
なぜ母の日にカーネーションなのか、ちゃんと説明できる?
実はこの話、知れば知るほど「へえ〜」が止まらない。

元々の母の日は「白いカーネーション」だった
母の日にカーネーションを贈る習慣は、20世紀初頭のアメリカで生まれた。
きっかけは、アメリカの女性・アンナ・ジャービス。1905年に母親を亡くした彼女は、1907年、亡き母を偲んで追悼式を開いた。その時に参列者全員に配ったのが、母が生前大好きだった白いカーネーションだった。
アンナの想いが多くの人の心を打ち、この「白いカーネーション」が母の日のシンボルへと広がっていく。

「赤」と「白」で意味が違った時代があった
アンナが提唱した当初のルールが、なかなか面白い。
- 母が健在の人 → 赤いカーネーション→健在の母への敬意
- 母を亡くした人 → 白いカーネーション→亡き母への追悼
つまり、その日に身につけている花の色を見れば、「あ、この人はもうお母さんがいないんだな」とわかる仕組みだった。
しかし次第に「それって傷つく子どももいるんじゃ?」という声が広がり、今のように赤いカーネーションが定番になっていった。なんとも人間らしい変化だ。
アンナのお母さんは社会活動家だった
ここを知るともっと深みが出る。
アンナの母・アン・ジャービスは、ただの「優しいお母さん」ではなかった。1858年に「Mothers’ Day Work Club(母親の日活動クラブ)」を設立し、貧しい人々を助けるための活動を精力的に行っていた人物だ。
南北戦争中には、北軍・南軍双方の負傷兵を分け隔てなく看護するよう訴え、戦後は敵味方だった兵士たちが共に集う「Mother’s Friendship Day」というイベントを開催した。
アンナが母を偲んで始めた「母の日」は、単なる感謝の日ではなく、平和を願い続けた母の生き方そのものを記念した日でもあったのだ。

日本に母の日を広めたのは「お菓子メーカー」だった
母の日は1914年にアメリカのウィルソン大統領が国民の休日に制定した後、日本には明治時代の終わりごろに伝わった。最初はキリスト教関係者の間で行われる行事だったが、一般の人々にまで広めたのが森永製菓だ。
1937年、森永製菓が「森永母の日大会」というイベントを全国で開催。これが大きな反響を呼び、母の日という行事を日本全国に広めるきっかけとなった。
それに伴って、母の日にカーネーションを贈る文化も、次第に全国へと広がっていったのだ。
チョコレートやキャラメルで知られるお菓子メーカーが、母の日の普及を担っていたとは面白い。

母の日を作った人が、晩年「後悔した」と言った
これが一番の驚きポイントかもしれない。
母の日を生み出したアンナ・ジャービス本人が、晩年こんな言葉を残したとされている。
「母の日を作ったことを後悔している」
理由は、自分が広めた「感謝の日」が急速に商業主義に染まってしまったから。花屋やお菓子メーカー、カード会社が母の日をビジネスに利用することに強く反発し、晩年はなんと「母の日の商業化に反対する運動」を始めるほどだった。
かつては母の日のカーネーション販売業者に対して訴訟を起こそうとしたこともあったという。
自分が作ったものに自分が反対する——なんとも皮肉で、悲しいエピソードだ。
今日カーネーションを渡す時に使える一言
もし母の日に、お母さんにカーネーションを渡すなら、こんな一言を添えてみるのはどうだろう。
「カーネーションって、元々は白い花もあったんだって。知ってた?」
プレゼントと一緒に小さな雑学を添えると、会話のきっかけになるし、ちょっとだけ「調べてきたんだ」感が伝わる。
気持ちを伝えるのが苦手な人にとっても、雑学はいい橋渡しになるかもしれない。
まとめ
母の日とカーネーションには、こんな歴史が詰まっていた。
- 1907年、アンナ・ジャービスが亡き母を偲んで白いカーネーションを配ったのが始まり
- 元々は「赤=母が健在」「白=母を亡くした」と色分けされていた
- アンナの母は南北戦争中に平和を訴えた社会活動家だった
- 日本で広がったきっかけは森永製菓(1937年)
- 作った本人が晩年、商業化に反発して「後悔した」と語った
「とりあえずカーネーション」でも全然いい。でも、その花に込められた長い歴史を知ると、渡す時の気持ちが少し変わる気がしない?
今日は、大切なお母さんに感謝を伝える日だ。



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